8月9日、長崎が原爆を投下された日に。


今日、8月9日は長崎が原爆を投下された日です。

私は親も親戚も様々な形で“被爆”していて、だからこそ、様々な話を聞いて育ちました。

日差しが三角形に差し込む6畳の部屋で、陽が当たっていた三角の中にいた父親は死に、自分と母は無傷だった話。真昼間に真っ黒な雨が降る中、ただただ、何時間も歩いたふたり。助かってしまった、と思った母は、20年後に肺がんになり、帰らぬ人となり、自分は60歳からの10年、これでもかと様々に現れる多発性のがんに苦しめられ、あの日、母と歩いた、まるであの世のような道を、何度も思い出したという話。

大規模な空襲?大変な爆弾?だったようだ・・・ってことしか知らずに、直後からひたすら姉を探しに爆心地へ向かった弟の話。先に早めの昼休みでグラウンドに出て、バレーボールをしていた一群が一瞬で焦げた話。これを動員されていた三菱の工場の室内から見ていた姉は、ひたすらに家路を急ぐ中で、探しに来た弟にばったり出会う。探しに来た弟は、60歳の時に、突然の病に倒れ、白血病と聞き、あの時歩いた道を、姉と抱き合ったことを、ふと思い出した、そんな話。

女学校から動員され、翌日から小学校での救護活動を手伝った少女の話。何も知らず、焼けただれた人々を励まし、手を握った。35歳の時、子宮がんになり、60歳で再発。再発というにはおかしい・・・と聞かされ、最後の病床で、あの日のことを思い出し、まさかと思いながらも、誰かに話したくなり、東京の大学に通う姪にポツポツと話しはじめる。そんな話。

原爆の怖さは、今日この瞬間にも、誰かが、その為に死んでいるってことだと思います。

投下の1年後、5年後、10年後、20年後、普通の市井の人々が死に続けました。白血病になった時、多発性のがんになった時、ああ、もしかして?と、あの日の自分の行動を思い出す、幼い自分を追いかけ直す、後悔する、・・・なんという恐怖、そして、絶望。


6日にテレビで、広島で投下の翌日から、救護に駆り出され、十数年後に多発性のがんに倒れた方がでておられました。追跡調査で、同じく救護に駆り出された女学生の多くが白血病などの病に倒れていたことがわかったとのこと。何も知らずに救護に携わり2次被爆した少女たち。その後の人生を大きく変えてしまうなんて思ってもいなかったはずです。

因果関係を強く感じ、苦しみながらも、救護に行ったことを悔やむ方はいなかった、とリポートは締めくくられていました。本当に?
私は、叔母の話と同じだ、と思いました。広島でもあったんだなぁ、と。私は、叔母がほんとうに、救護に行ったことを悔いていなかったか?ああ、あの時に、行かなければ?と思わなかったのか?悔やまなかったか?何度か質問をしました。

「言っても、思っても、しょんなか。」

仕方のないこと・・というのが彼女の答えでした。

被爆者は年中、原爆のことを思っている訳ではありません。日常の中では、すっかり忘れているとおもいます。うちでも、話題になることもなかった。あの日のことよりも、今日のことや明日のことが大切だから。でも、今日や明日が脅かされるようなことが起きた時、それがあの日のせいだった?時に、鮮明に思い出すのだと思います。

こうして直接話を聞く機会はどんどん減るのでしょう。以前、ワシントンのスミソニアン博物館群の中のホロコーストミュージアムを訪ねた時、何よりもすごいと思ったことが、全米に残るホロコーストから生き残ることができた方々のムービーに簡単にアクセスでき、多くの方々の肉声を聞くことができる展示でした。もちろん、広島や長崎にも少しはあります。でも、PCの前に座って、数千人のデータの中から、聞きたい被爆者の方を選び、いつでも聞くことができるように、見られるようにしたら?とおもいました。そして、英語でも。そんな予算がない国ではないはずなのです。

今を戦前にしたくないと言う人がいるほど、心配な流れがあります。私も、戦争は知らないけれどそう思う。成熟した都市はかつてのような戦争は出来ないはず、とも思います。でも・・・もしもそんな気配があるとしたら、全力で止めなければなりません。

長崎は、地上で最後に、人をひとりでも多く殺すために核兵器が使用された街です。今のように核に対する知識も、放射能に対する脅威も何も知らずに、投下後も何年も、家族や友人を失い続けながら、思えば愚かにも、汚された土地を愛し、再生してきました。

同じように家族もいる、同じ人間が意志をもって行った行為です。その一瞬の行為が、10年、20年、50年、攻撃を続け、苦しみをふりまき続ける。

そんな場所が、そんな数十年にわたる苦しみが、新たに生まれないことを、ひたすら祈るばかりです。

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